どんな世界に暮らしているのだろう?

 さり気ない会話。
 節子さん「こんど来る人のプロフィールを知りたいんだけど・・」
 とっさに、じぶんのなかで起きた反応。
 「それって、メールで知らせてあるはずだけど・・」みたいなもの。
 (間、ただし一瞬)
 
 「どんなこと、知りたいのかな?」
 「歳とか、肉は食べないかどうかとか・・」
 (そういうことか、みたいなものおきている?)
 口では、「わかった、また連絡する」

 
 検討会の最中の携帯電話。
 「わかった」と言ったけど、なにがわかったのかな?
 振り返る。

 「そういうことか」とぼくは捉えたようだ。
 書けば「とらえた」ということだけど、どういうこころの状態で
”とらえた”かと言えば、「節子さんの言っていることは、そういう
ことだ」と「わかった」、「節子さんの言いたいことは、それだ」と
実際のことにしている。

 節子さんは、実際、そのことを聞きたかったのか。
 ”節子さんの実際”と焦点をそこに当ててみると、じぶんはそのように
捉えたけど、”実際”となったら、「そうか、どうか?」
 じぶんがそう受っとって、そうおもっているというのはあるけど、
そこで終わらないようなものありそう。

 おなじ「わかった」でも、それで終わりという状態から出たものと、
「いまは、それで、わかったにしておこう」みたいな、それで終わり
というではない状態からでたものとありそうだ。


 あまりにも、当たり前の会話や、やりとり過ぎて、焦点を当てる
のが面倒、そんなことしていたら、ややこしくて、スムーズに暮らせ
ない感じもする。
 ここが、おもしろいところかも。
 不便を不便とおもわず、不便をこなす処世術で切り抜けて、それで
いいんだとしているかも。

 「言われた」
 「無視された」
 「反応がなかった」
 「気がつかないのよね」

 そんなにおもうことは、日々ありふれている。
 でも、実際はどうなっているんだろう?と、焦点を当ててみてみると、
「おもっている」というより、その人が、そのことが、実際そうなって
いるという、じぶんの状態からのものに気づいたりする。


 手ごわいぞとはおもう。
 気づいたら、そっちのほうが、楽で、当たり前かもしれない。
 自由で、楽で、楽しいが、おもしろいのじゃないか。

 四日連続の日常化レッスンを終えて、いまの感想。